■ 積木に魅せられて
子どもの頃、積木で日課のように遊んだ記憶があります。いろいろな大きさの角柱や円柱がわたしの気持ちのおもむくままに変貌してくれるのが魅力でした。都市計画をしたり、建築家になったり、時には一個の角柱を自動車に変える魔法使い。
そんな思い出が心に深く残っていたためでしょうか。学生時代に幾種もの積木をデザインしました。一人、二人で遊ぶものも、集団で遊ぶものもつくりました。
大学を出て、保育用品のメーカーに入社し、そこでもまた積木の創作。保育士の真似ごとを浦和の保育園で体験したのはその後のことです。そこで子ども達がすぐ飽きてしまうおもちゃが多い中で、積木は心をとらえ続ける力があることを再認識しました。
変わらぬものへの希求
いつの時代にも、どんな民族の子にも変わりなく愛され続ける積木のようなおもちゃがある。できることなら、デザイナーとして、そんなおもちゃをつくっていきたい。わたしの心の中に新たな意欲が芽生えました。
それは普遍性に対する希求でもありました。あまりにもあっけなく移ろいゆく人の世の姿が若い心に淋しく哀しく感じられたのです。
確かなものが欲しい、確かなものが創りたい。変節し、変心する自分の心を観るにつけ、感じるにつけその願いは強まっていきました。
おもちゃとは何か。
人間とは何か。
自分はいったい何のために生まれたのか、生きているのか。
他者を傷つけ、ヌケヌケと生きている自分を知りながら、いつもどこかで変わらぬものを求め続けていました。そして、それは、なぜ積木が子どもの心を掴み続けるのか、という問いと、どこかでつながり合うはずだと思っていました。
幾つも幾つも角柱からその後も童具を創り続けました。童具と関わりはじめて三十数年。いま、やっと人生の命題と積木の魅力が一致しました。
キーワードはつながり
積木はいろいろな形をつなぎ合わせて、ひとつのまとまりのあるかたちをつくりだすものです。あるいは立方体や直方体や円柱などの単体が子どものイメージの中で椅子や自動車やビルとなります。これは人間の二つの思考形式、集中思考と拡散思考に一致します。<まとめ>と<応用>と言ってもいい。情報の統一化と多様化です。いずれも<つながり>を求める思考であり、活動です。
つながり。
これが宇宙謎解きのキーワードでした。
思考ばかりではなく、万物はつながることによってその生命を全うしています。
人間の肉体は血液があらゆる器官をつなぐことによって生を持続します。
社会は様々な才能や人格がつながることによって成立しています。
今この世に生を受けているわたし達は久遠の宇宙生命の連鎖の結果としてあります。
芸術と科学の一致
しかし、このつながりは調和されていてはじめて意味を持ちます。調和は必然の結果。調和なきものに必然はなく、必然なきものに調和はありません。
積木はただ木片であればいいのではなく、そこにはひとつひとつの単体を関係づける大きさや個数に数量的な法則が内在していなければ意味はありません。例えば一辺がaなら他のパーツ(部品)の一辺が2a、3aとなるようなものでなければ、集合体は無理なく形成されません。秩序=法則性=必然性が調和を生み出します。
必然は科学として解明され、調和は芸術として表現されるあり方が生活の中にはあります。しかし、これとて不可分です。
子どもが積木でひとつの建物をつくるとします。その造形が美的なものであれば、それは構造的な理にかなってもいます。
こうしたことを子どもは積木で学んでゆきます。遊びは主体的、能動的であるゆえに楽しい学びとなります。
学びの多いもの、すなわち、発見や表現が豊かにできるもの、それが子どもの心を捉えて離さない童具となります。
積木はこの条件を充分に備えています。しかし、積木のように、宇宙原理、人間の本質に根ざした童具は限られています。昔、縁日から生まれた起縁そのままに、晴れの日のデコレーションケーキ、あるいは気晴らしのおやつのような意識で売られ買われ続けているのが現状です。
童具が間食である時代はすでに過ぎました。
つながる生命
フレーベルやモンテッソーリ、あるいはピアジェやシュタイナーの出現によって、童具や身の回りの形態、素材が子どもの成長発達にとって多大な影響を及ぼすことが検証されてきています。
五官を駆使し、主体的な活動の対象となり、操作するなかでただちに因果関係を知ることができるかたちが、学びに有効な手段であることは自明です。
人生における学びとは調和されたつながりの原理を直感し、その中に自分の役割を自覚すること、といまわたしは思うようになりました。
わたし達はきょうこの日を自然や人や宇宙史の中で生かされています。ものみなに感謝できる生命となってはじめて心の平和、社会の平和は訪れてくるはずです。しかし、現代は個人の尊厳のはき違えからか、ともすると自分だけがよければ可とする風潮があまりに強すぎます。<自分が><わたしが>の意識の中でがんじがらめになっています。
積木を積み重ねて塔をつくったとしましょう。誰もがてっぺんの三角形のブロックになりたがっていて、柱状の、すでに個としてのかたちを失った立方体の存在には目を向けようとしません。しかし、その積木をひとつ取りはずしたら積木の塔は一挙に崩壊することもあります。どの形も役割をもっています。価値に上下はありません。
積木のシンフォニー
自然破壊も人間ばかりが我がもの顔にふるまって地球生命の調和あるつながりを無視するところから起きています。
日常的に問題になっている、少年達の暴力、イジメ、登校拒否などの心の病いの現れも、調和の尊さを教えようとせず、競争原理の中に幼いうちから向わせようとするおとな達によって引き起こされたものです。調和の中でこそ生存しうる者が、調和を拒否した世界に囚われれば限りない病理が生まれるのは当然のことです。
いつまでこんな愚を繰り返せば気がすむのでしょう。競争原理の果ては孤独しかありません。孤独の中に生の充実はありえない。
生まれたばかりの子どもがひたむきに母を求め、やがて友を求めることを知らぬ者はありません。
誰しも共感を求めています。
愛を求めています。
調和されたつながりとは愛の原理、美の原理と一致します。
積木遊びもかたちとかたちのシンフォニーです。
<発見と表現=創造>の向かうところは、調和であり、愛です。
豊かな成長のために、子どもたちに積木遊びはなくてはならないものと考え、いまもわたしは積木の創作を続けています。子どもにとってだけでなく、わたしにとっても積木は創造力を刺激する魅力的なツールとなっています。
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